あれは1970年代、まだ「エステティック」という言葉が日本の女性たちに馴染みのなかった頃のことです。
私が出版社の美容担当編集者として働き始めた頃、日本にひとつの新しい波が押し寄せてきました。
その波の中心にいたのが、たかの友梨という一人の女性でした。
若く情熱に満ちた彼女の姿は、いまでも鮮やかに私の記憶に残っています。
たかの友梨が築いた日本のエステ文化は、単なるビジネスの成功物語ではありません。
それは、日本女性の「変わりたい」という願いに寄り添い続けた40年の軌跡です。
私はその変化を身近で見つめてきたひとりとして、今日は皆さんにその物語をお伝えしたいと思います。
私たち女性の美意識と社会のあり方、そして時代の空気が複雑に絡み合って形作られた日本のエステ文化。
その流れを追いながら、これからの美の在り方についても考えていきましょう。
「美は、手をかけた分だけ応えてくれる」
これは私が長年取材の中でたかの友梨から繰り返し聞いた言葉です。
単なる見た目の美しさを超えて、自分自身を大切にする姿勢が本当の美を育むという哲学が、
日本のエステ文化を根底から支えてきたのです。
エステ黎明期とたかの友梨の登場
1970年代の日本は、高度経済成長を経て女性たちの美意識に大きな変化が起こっていました。
それまで「西洋人のようになりたい」という憧れが強かった日本人女性たちの目が、少しずつ自分自身の美しさを見つめ直す方向へと向き始めていたのです。
ファッションや美容のアイコンも、映画女優からコマーシャルで活躍するモデルへと変わっていきました。
この時代、まだ「エステ」という言葉すら一般的ではなかった日本に、たかの友梨は新しい風を吹き込みます。
1970〜80年代の日本における美容意識の変化
欧米化志向の強かった1960年代までとは異なり、70年代に入ると日本人特有の美しさを再評価する流れが生まれていました。
資生堂が1973年に純日本的な山口小夜子を広告モデルとして起用したことは、その象徴的な出来事でした。
また、口紅の色も伝統的な赤から淡いシャーベットトーンへと広がり、メイクアップの幅が格段に広がっていきました。
女性たちはより自分らしい美しさを模索し始めていたのです。
しかし同時に、石油ショックや公害問題など、戦後の急成長に陰りが見え始めた時代でもありました。
そうした社会背景も相まって、女性たちは外見だけでなく、内側からの美しさや健康への関心も高めていきました。
エステティックが日本に根付き始めたのは、こうした時代の流れの中だったのです。
たかの友梨の誕生とビューティクリニックの革新
1972年、まだ20代だったたかの友梨はエステティックを学ぶため単身フランスへ渡ります。
8ヶ月の修行を経て帰国した彼女は、1973年に株式会社東京美機を設立し、その後「たかの友梨ビューティクリニック」を立ち上げました。
当時の日本にはなかった「体の自然治癒力をサポートすることで素肌を健やかに美しくする」という彼女の理念は、多くの女性の心を捉えました。
同時に、エステティシャン養成学校も開設し、日本におけるエステティックの基盤を整えていったのです。
さらに技術向上のためアメリカへ渡り、カリフォルニア州脱毛士ライセンスを取得するなど、常に最先端の技術を追求する姿勢も彼女の特徴でした。
海外の伝統的な海の資源を活用した美容法やリンパの流れに沿ったトリートメントなどをいち早く日本のエステティックに導入したことも、業界に大きな影響を与えました。
山下澄子が見届けた「エステ」の始まり
私が初めて「たかの友梨ビューティクリニック」を取材したのは、1975年のことでした。
まだ小規模だった店内に一歩足を踏み入れたとき、そこに広がっていたのは日本の美容室とも異なる独特の空間でした。
白を基調とした清潔感のある内装、ほのかに漂うアロマの香り、そして何より働くスタッフたちの凛とした佇まいが印象的でした。
「美容室は髪を、エステは肌と身体全体を美しくする場所です」
そう語るたかの友梨の言葉には、確固たる信念が感じられました。
当時はまだ「エステ」という単語を記事に使うと、編集長から「読者に伝わらない」と注意されるほど、一般的ではありませんでした。
しかし、女性たちの間には確実に「肌から美しくなりたい」という欲求が芽生え始めていたのです。
たかの友梨は、そうした潜在的なニーズを的確に掴み、エステティックという新しい美容文化を日本に根付かせていったのです。
「読むエステ」の確立と90年代の躍進
1980年代後半から1990年代にかけて、日本社会はバブル経済に沸き、女性たちの美容への投資は加速していきました。
「女性自身」や「美ST」といった女性誌でのエステ特集が組まれるようになり、私もこの頃から「読むエステ」という新しいジャンルの執筆に本格的に取り組むようになりました。
肌感覚を言葉で伝えることの難しさに挑戦する日々でしたが、たかの友梨というリアルなモデルがあったからこそ、説得力のある記事が書けたのだと思います。
美容雑誌に見るエステ記事の進化
90年代初頭までの美容記事といえば、メイクアップやヘアスタイルが中心で、エステやスキンケアの扱いは限定的でした。
しかし、バブル経済を経験した日本女性の美意識は更に高まり、エステに関する情報を求める声も大きくなっていきました。
美容雑誌は徐々にそのページ数を増やし、専門的な美容記事が増えていったのです。
特に注目すべきは、この時期から美容雑誌がターゲット層を細分化し始めたことです。
20代向け、30代向け、そして40代以上の「大人の女性」向けと、年齢によって美容の悩みや関心が異なることを認識し、それぞれに合わせた情報提供が始まりました。
「美ST」が創刊されたのも2009年で、40〜50代の大人女性向けのエイジングケア情報が本格的に広がっていったのです。
美容雑誌の多様化(90年代〜2000年代):
- 1. 若年層向け:メイクアップやトレンド中心の内容
- 2. 30代向け:スキンケアとメイクのバランスを重視
- 3. 40代以上向け:エイジングケアや内面からの美容アプローチ
- 4. 専門特化型:ネイル、ボディケア、ヘアなど特定分野に特化
- 5. オーガニック志向:自然派コスメやホリスティックな美容法
『女性自身』『美ST』での連載と読者との対話
1990年代に入り、私は『女性自身』で「プロが教える!本当の美肌ケア」という連載を始めました。
この連載では、たかの友梨をはじめとするエステのプロたちの声を読者に届けることを心がけました。
読者からの質問や悩みに対して、現場で培われた知識と技術をもとに解決策を提案するというスタイルは、多くの読者の支持を得ることができました。
「ハリのない肌を何とかしたい」「シミが気になる」など、読者から寄せられる声にはいつも切実なものがありました。
そうした一人一人の悩みに丁寧に向き合うことで、エステは次第に「特別な日のための贅沢」から「日常的なケア」へと変化していったのです。
2000年代に入り『美ST』が創刊されてからは、さらに40代以上の女性に向けた「老いを怖がらない美容」という視点を強調するようになりました。
言葉で肌感覚を伝える、山下流の表現術
「肌がふっくらとうるおい、指先が吸い付くようなハリを感じる」
「まるで絹を撫でるような、なめらかでしなやかな肌触り」
こうした表現で、目に見えない肌の変化や感触を伝えることは、私の仕事の醍醐味でした。
エステティックの魅力を文章で伝えるには、単に効果や手順を説明するだけでは不十分です。
読者が「そこにいるような」「自分も体験しているような」臨場感を持てる文章を心がけました。
そのために、私自身がエステを体験し、その感覚を自分の肌で感じることを大切にしてきました。
金沢出身の私には、美しいものを静かに愛でる感性が身についていたように思います。
端正な表現の中に、肌や心の揺らぎを感じとり、それを言葉にする。
それが「澄子節」と呼ばれるようになった私の文体の源泉かもしれません。
エステの体験を「読む」ことで、多くの女性たちがサロンに足を運ぶきっかけを得ました。
「言葉」が「体験」を生み、その「体験」がまた新たな「言葉」を生み出す。
このサイクルが、日本のエステ文化を豊かにしていったのだと感じています。
エステ文化の成熟と変容
2000年代に入ると、エステティック業界はさらなる多様化と成熟の時代を迎えます。
技術の進化とともに、消費者の意識も大きく変わりました。
「キレイになりたい」という単純な願望から、「自分らしい美しさを見つけたい」という個別化・多様化したニーズへと移り変わっていったのです。
2000年代以降のエステティックの多様化
2000年代に入ると、日本のエステ業界では新たな変化が起こり始めました。
それまで女性向けとされていたエステサービスが、男性向けにも広がるようになりました。
メンズエステの需要増加は、男性の美意識の高まりだけでなく、ジェンダーレスの概念が社会に浸透してきたことも一因でした。
また、サロンで受けるフルサービスのエステだけでなく、セルフエステという選択肢も登場しました。
忙しい現代人のライフスタイルに合わせ、自宅でケアできる美容家電や高機能なホームケア製品の市場も拡大していきました。
エステティックサロン自体も、フェイシャル専門、ボディケア専門、痩身専門など、さまざまなコンセプトのサロンに細分化していきました。
ドクターと提携しているサロン、化粧品メーカーによるサロン、自然派サロン、最先端の科学的技術を用いたサロンなど、それぞれが独自の特色を打ち出す時代になったのです。
女性たちの「美意識」の変化と世代間の違い
美容に対する価値観は、世代によって大きく異なります。
私がエステ記事を書き始めた頃の読者層である現在の60代以上の女性たちは、「若く見られたい」という願望が強い傾向がありました。
彼女たちにとって、エステやスキンケアは「老いに抗う」ための手段という側面が強かったのです。
一方、現在の40代50代の女性たちには、「自分らしい年の重ね方」を模索する姿勢が見られます。
彼女たちは若さだけを追いかけるのではなく、年齢相応の美しさや健康を大切にしています。
「アンチエイジング」から「エイジングケア」へ、言葉の変化にも価値観の変遷が表れています。
そして今の20代30代は、さらに価値観が多様化しています。
SNSの影響もあり、「他人と同じでありたい」と「個性を大切にしたい」という相反する欲求が共存しているように感じます。
彼女たちにとってエステは、外見の美しさだけでなく、リラクゼーションや自己肯定感を高める場所としての意味合いも強くなっています。
世代 | 美意識の特徴 | エステへの期待 |
---|---|---|
60代以上 | 若さの維持を重視 | 老化防止、若返り効果 |
40〜50代 | 年齢に合った美しさ | エイジングケア、健康との両立 |
20〜30代 | 個性と流行の融合 | 悩み解決、自己肯定感向上 |
エステ現場から見える”本音”と”期待”
長年にわたりエステティシャンやサロンオーナーたちにインタビューを重ねてきて、現場の声から見えてくる変化も多くありました。
たかの友梨自身も「お客様の求めるものは時代とともに変わってきた」と語っていました。
「昔は施術の効果だけを求めるお客様が多かったけれど、今はカウンセリングやセラピスト(エステティシャン)との会話も大切にされる方が増えています」
エステが「結果」だけでなく、「過程」「体験」としての価値を持つようになったのです。
また、2011年の東日本大震災以降、大きな変化も見られました。
「何が本当に大切なのか」という問いが社会全体に広がり、美容においても「過剰な若さの追求」から「自分らしさの尊重」へと価値観がシフトしていきました。
資生堂のヘアメイクアップアーティストによる記録によれば、この時期を境に女性のメイクも「盛る」傾向から「ナチュラル」へと回帰していったとされています。
エステにおいても同様に、「劇的に変わりたい」から「心地よく自分を保ちたい」という方向へとニーズが変化していきました。
この流れの中で、たかの友梨ビューティクリニックも単なる「美容」の枠を超え、社会貢献活動にも力を入れるようになりました。
被災地支援や、児童養護施設へのボランティア活動なども積極的に行うようになったのです。
山下澄子が語る、たかの友梨の思想と影響力
40年にわたりたかの友梨と彼女のエステ文化の発展を見つめてきた私から見ると、彼女の存在は単なるビジネスの成功者ではありません。
日本の女性たちの「変わりたい」という願いに寄り添い続けた、ひとつの時代の象徴だったのです。
彼女の思想と情熱は、日本のエステ文化そのものを形作っていきました。
「変わりたい」という女性の願いを支え続けて
エステティックの本質は、「変わりたい」という願いに応えること。
たかの友梨はこの単純だけれど深い真理を、常に大切にしてきました。
彼女のサロンを訪れる女性たちの多くは、単に「美しくなりたい」だけでなく、「自分をより好きになりたい」という願いを抱えていました。
私が出会った一人の女性は、離婚を経て自信を失っていましたが、たかの友梨のエステサロンに通ううちに、徐々に自分を取り戻していきました。
「鏡を見るのが怖くなくなった」と彼女は語りました。
エステは外見だけでなく、内面の変化をも支えるものだったのです。
たかの友梨は常にこうした「心と身体の両方」を重視していました。
「美容皇后になりたいわけじゃない。ただ、自分に自信を持って毎日を楽しく生きたい」
そんな女性たちの「変わりたい」という内なる声に、エステという形で応えてきたのです。
たかの友梨の情熱と信念
たかの友梨に何度もインタビューをしてきましたが、彼女の語りには常に情熱がありました。
「美容は自己実現のためのツールなの」
彼女はこう言って、単なる見た目の美しさだけでなく、内面からの輝きを引き出すことの大切さを強調していました。
ビジネスの拡大期においても、彼女は常に技術の向上と人材育成にこだわりました。
エステティシャン養成学校を設立し、「ただ施術するだけでなく、お客様の心に寄り添える人材を育てたい」という思いで教育にも力を入れてきました。
その姿勢は、日本全国に広がる多くのエステサロンにも影響を与え、業界全体の質の向上に貢献したと言えるでしょう。
現在も、たかの友梨社員は「愛といたわりの精神」を持った美のプロフェッショナルとして、厳選された研修プログラムで技術を磨き続けています。
エステティシャンとしてのキャリアを考える若い世代にとって、たかの友梨ビューティクリニックは未経験からでもしっかりと成長できる環境を提供していることで知られています。
たかの友梨が大切にした4つの信念:
- 1. 結果にこだわる:実感できる効果を提供する
- 2. 人材育成を重視:技術だけでなく心のケアができる人を育てる
- 3. 革新を続ける:常に新しい技術や知識を取り入れる
- 4. 社会貢献:美を通じて社会に還元する
共鳴する哲学:「美は、手をかけた分だけ応えてくれる」
たかの友梨の哲学の中で、私が最も共感したのは「美は、手をかけた分だけ応えてくれる」という言葉でした。
これは彼女が繰り返し口にする言葉で、エステに限らず人生哲学として私自身も取り入れてきました。
美しさとは突然訪れるものではなく、日々の小さな積み重ねの結果であるということ。
それは庭いじりや刺繍といった私の趣味にも通じる考え方です。
種をまき、水をやり、丁寧に育てることで花は咲く。
針と糸を規則正しく動かすことで、布に美しい模様が生まれる。
エステティックのケアも同様に、一回の劇的な効果よりも、継続することで得られる変化が本物の美しさを生み出すのです。
この「継続の力」への信頼は、たかの友梨の思想の根幹にあり、多くの女性たちの心に響いていきました。
彼女はこの哲学を元に、サロンケアだけでなく、自宅で続けられるホームケアの重要性も早くから説いていました。
「プロの手による特別なケア」と「自分自身で続ける日常のケア」。
この両輪があってこそ、本当の美しさが育まれると考えていたのです。
年齢とともに深まる美を求めて
長年エステ文化を追いかけてきた私自身も、62歳という年齢を重ねました。
かつて20代だった私と、今の私の美への意識は大きく変わりました。
「若く見られること」より「自分らしく健やかであること」を大切にするようになったのです。
そしてそれは、たかの友梨自身の美容哲学の変化とも重なるものでした。
「老いを怖がらない美容」というスタンス
「老いを怖がらない」という言葉は、私が40代になってから大切にしてきた美容の姿勢です。
年を重ねることを否定するのではなく、その過程で得られる豊かさを受け入れる。
そして同時に、自分の肌や身体を丁寧にケアし続けることで、最良の状態を保つ。
このバランス感覚こそが、「老いを怖がらない美容」の核心なのです。
たかの友梨も常々「年齢を重ねることでしか得られない美しさがある」と語っていました。
その言葉は単なるマーケティング戦略ではなく、彼女自身の信念から来るものでした。
年齢を重ねた女性たちに対するエステのアプローチも、時代とともに変化していきました。
かつては「若さの復活」をイメージさせる言葉が多用されていましたが、現在は「あなた自身の美しさを引き出す」という表現が増えています。
これは社会全体の意識の変化、そして女性たち自身の意識の成熟を反映しているのでしょう。
エイジングケアと心のケアの接点
現代のエイジングケアは、スキンケアやボディケアといった外面的なケアだけでなく、内面からのアプローチも重視されるようになりました。
食生活、睡眠、ストレス管理など、ライフスタイル全体の見直しが美容の一部として語られるようになったのです。
たかの友梨ビューティクリニックでも、2000年代以降は「ホリスティック(総合的)なケア」という考え方が浸透し、カウンセリングの内容も変化していきました。
「お肌の悩みだけでなく、日々の生活リズムや心の状態についても丁寧に聞き取りを行うようになりました」
あるエステティシャンはそう語っていました。
これは美容の世界が「見た目の美しさ」から「生き方全体の質」へと視野を広げていることの表れでしょう。
私自身、年齢を重ねる中で美容と健康の境界線が曖昧になっていくことを実感しています。
肌の調子が良いときは心も安定し、心が満たされているときは自然と表情も明るくなる。
この「内と外の調和」が、真の意味での「エイジングケア」なのかもしれません。
金沢の記憶が育んだ美意識と文体
最後に少し個人的な話をさせてください。
私の生まれ育った金沢は、伝統と現代が共存する美しい街です。
茶道や華道、加賀友禅などの伝統文化が今も息づき、四季折々の自然の美しさを大切にする風土があります。
そんな環境で育った私の美意識は、派手さよりも品格を、一時的な流行よりも普遍的な美しさを重んじるものでした。
それは私の文体にも現れていると言われます。
明治文学を思わせる端正さと、金沢弁の柔らかなイントネーションが混ざり合った「澄子節」は、そうした背景から生まれたのでしょう。
エステやスキンケアについて書くとき、私は常に「本質的で長続きする美しさ」を読者に伝えようとしてきました。
それは金沢で培った美意識が、職業としての美容ライターの活動に自然と反映されたものだと思います。
たかの友梨の「美は手をかけただけ応えてくれる」という哲学に共鳴したのも、そのためかもしれません。
文化としてのエステティックは、その国や地域の美意識を反映するものです。
日本のエステ文化が独自の発展を遂げてきたのは、日本人特有の繊細さや「内なる美」を重視する傾向があったからこそだと感じています。
金沢という一地方の美意識が私の文体と美容観を形作ったように、日本という国の美意識がエステという西洋発祥の文化を独自に発展させていったのだと思うのです。
まとめ
40年の時を経て振り返ると、たかの友梨が日本にもたらしたエステ文化の変遷は、単なる美容の歴史ではなく、日本女性の意識の変化と社会の発展を映し出す鏡でもありました。
1970年代、まだエステという言葉すら馴染みのなかった時代に始まり、バブル期の隆盛を経て、現在の多様化した美容文化へと発展してきたこの軌跡には、多くの女性たちの願いが詰まっています。
たかの友梨と歩んだ日本のエステ文化は、以下の3つの変化を経てきたと言えるでしょう。
まず、「西洋の模倣」から「日本独自の進化」へ。
次に、「外見の美しさ」から「内面を含めた総合的な美」へ。
そして「画一的な美の基準」から「多様な美の共存」へ。
私が40年にわたって美容ライターとして活動し、たかの友梨という一人の女性の足跡を追い続けてきたのは、そこにただの商業的成功以上のものを感じていたからです。
彼女は多くの日本女性の「変わりたい」という願いに寄り添い、その思いに応える形でエステ文化を広げてきました。
それは女性たちのエンパワーメントの物語でもあったのです。
言葉で美容の世界を伝え続けてきた私からの最後のメッセージは、「今の自分をもっと好きになるために」美を追求してほしいということ。
年齢を重ねることを恐れるのではなく、その過程で得られる豊かさを受け入れながら、自分自身を大切にする姿勢こそが、本当の美しさを生み出すのだと信じています。
美容の世界は今後も変化し続けるでしょう。
しかし「美は、手をかけた分だけ応えてくれる」というたかの友梨の哲学は、時代を超えて私たちの心に響き続けるはずです。
それは単なるエステの理念を超えて、人生そのものを豊かにする知恵でもあるのですから。
最終更新日 2025年4月29日 by rwcollec